『100日間生きたワニ』感想 ※ネタバレあり

映画『100日間生きたワニ』公式サイト


見なきゃ何も語れないと思い、見に行ってきました。*1


見る前は

・「右上に残りあと○○日」って『逃走中』みたいにカウントされるのかな……
・ギャグ4コマ漫画として始まったわけだし、コメディやるのかな……
・上田監督がアニメ演出できるのか?

などいろいろ考えてました。

 

以下ネタバレ全開で感想、考察、批評のごっちゃになった文章になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


●映画の構成と下記文章について

「原作の総集編」と「映画オリジナル展開」の二部構成になっている本作。

よって感想も原作パート(総集編)と新規パート(オリジナル編)に分けてそれぞれの問題点や論点を考えてみる。

 

ちなみに未見の人向けに映画の流れを軽く説明すると、

冒頭にワニが死ぬ。その後100日前に戻って死ぬまでの日常を描き、再び100日目を迎える。そして100日目以後に関して原作にはないオリジナルの話が追加されている。

といった構成です。

また原作パートは長くなってしまったので、映画制作時の担当部ごとに分けてみました。

 

 


●原作パートについて

①制作

・尺が異常に長い
40分くらいかけてじっくり展開するので見てらんない。
腕時計を見ながら「まだ5分しか経ってないのか…」と10回くらい思った。

この映画見に来る人はほとんど内容知ってると思うので苦行に近い。

シンエヴァ制作陣にかかれば10秒で終わりそう。

・予算の無さ
作画に関してものすごく予算不足を感じる。
音楽自体も悪くないけど、セリフとの音響バランスが狂っている気がする。
物語のパワー不足を補うために、過剰にエモーションを引き立たせようとしているのかしらないけども、何度も「うるせぇな」って思った。

あまりに鑑賞体験としてしんどいので『時計仕掛けのオレンジ』のあのシーンを思い出した。

 


②演出

・会話やリアクションでの無意味な間
一つ一つの会話やリアクションに間をとって、いかにもその間になにか意味がありますよと言いたげな演出方法がある。

日常は間で溢れている。だから映画でもその間を忠実に再現することで「日常っぽさ」が再現可能のではないかという試みである。
映画でいうとジム・ジャームッシュが代表例になるんじゃないか。*2
自分はあの演出が好きじゃない。
かったるいし見ている人をバカにしてるとしか思えない。

時間の無駄でしかないと思う。

とはいえこの手法でしか表現しえないものがあるそれが好きな人も多いのかもしれない。(自分はそうして表現されたものにあまり価値は感じないけども。)
ただし今作は、手法は踏襲していても肝心の表現がなにもできていない。
「なにか言いたげな様子」だけひたすら反復されるのでイライラが止まらない。
いわゆる「日常の雰囲気」を再現することにのみ終始している。

本来、間というものは前後の事実や中身(アクション)があって、そのリアクションとしてのものであって、最初からリアクションを意図するのは嘘になると思う。
別に人は間をとることだけがリアクションではないのにそれに固執すると単にリアクションを考えるのが面倒だから黙らせとけという思考放棄の結果になってしまう。
↑これは映画学校で聞いたジャームッシュ(およびそのフォロワーたち)に対する批判の受け売りなんだけど、自分はこれにほぼ同意する。
「日常系」というアニメジャンルを代表する『けいおん』などは女子高の軽音部という日常*3を舞台にしているが、会話では間を不必要に取るといったことはしていない。あくまでアクションを起こしてそのリアクションを徹底的に研究して様々な可能性を見せてくれる。
何より奥行、立体感がある。キャラクターが生き生きとしているのだ。作劇に成功している。だからあれだけ熱狂的なファンを生んだんじゃないだろうか。
つまり『100ワニ』の問題点は「日常」を題材にしているという点にはない。
その不自然なまでの間によってエモーションが冷める。もはや不気味の谷に接近している。

 

・声優へのディレクションの拙さ
あまりに酷すぎる。これでは役者が可哀そうだ。
神木隆之介中村倫也木村昴新木優子、山田祐貴
別にとりわけ下手なはずはない。どの人も代表作を抱えた一流の俳優・声優だと思う。
ただ前後関係を考えたときにそんなニュアンスにはならないんじゃないか、もっとここは感情が入るんじゃないかなど、
アプローチの点で物凄く違和感があって、下手に聞こえてしまう。
とにかく絵と声が合っていない。
音響監督などディレクションする人が作品の意図をくみ取れ切れず、かつ役者たちにも適切な指示が遅れなかったのではないか。
制作がギリギリでアフレコ時に絵が間に合ってなかったとしたら再レコするべき。
これでOKを出したのはちょっと有り得ない。

 


③撮影

・アニメーションの躍動感の無さ
日常芝居とか静止が多く、紙芝居みたい。深夜テレビアニメの方が作画がよい。
バイクや馬のアクションもパワポのアニメーションの方が躍動感あるんじゃないか。
さらに画面から得られる情報量は少ないし、間延びも酷い。
ドラゴンボールフリーザ編のように同じ絵を再利用する箇所も何か所か見られた。
それらも効果的とはほど遠い。絵コンテきった人は本当にこれでよいと思ってたんだろうか…
アニメ的快楽、動きの面白さを感じるシーンが皆無で退屈だった。


・ズーム多用というチープさ
ズームは印象的、効果的な撮影方法*4だけど、これは多用するとチープになる。

いわゆる子供の運動会の記録映像みたいになる。

ズームを多用する映画なんて見てらんない。ただし『100ワニ』では多用する。

これはすごいこと。だって「ズームの多用はするな」ってたぶんそのへんの映像系の学生でも知ってるくらい基本的なことだから、なにか意図があるんだろうけど、全く分からん。だれか教えてください。


・背景美術の世界観に一貫性が無い
新海誠の作品で別のシーンで突然サザエさん作画の背景に変わったら違和感がすごいと思う。
でも『100ワニ』ではそれをやってくる。
なぜか主人公の働く喫茶店の外観だけ作画が異常に良い。
他は水彩っぽいタッチなのに、突然写実的になるので脳が混乱する。
どうして……????

 

 

④脚本

・リアリティの無い、主人公にとって都合の良い仲間たち
映画では敵体者は非常に重要な存在になる。というかこれが無いと物語たりえないと言っても過言ではないと思う。
主人公が追い込まれる(=ピンチを迎える)ことで主人公は予期せぬ行動をとって新たな展開を迎える。成長もする。
現実でも周囲の人間は自分にとって都合の良い人ばかりではない。*5
彼らは生きている。
『100ワニ』映画の登場人物は主人公に対して都合の悪いことは一切しない。

意地悪なやつはいないし、ムカつく出来事もない。
主人公が追い込まれることも、困ることも無い。

そうなると成長も葛藤も無い。

つまり面白くない。*6


・日常会話とセリフ
とにかく会話が映画らしくない。フィクションたりえていない。
初心者がやってしまいがちだけど、日常会話をそのまま文字起こししたらフィクションになるわけじゃない。
物語のセリフには必ず情報が含まれている必要がある。日常会話では情報量のコントロールなんて考えていないが創作物ではそれは許されない。*7
特に映画は時間に縛られるメディアであり、基本的に巻き戻しはできない。無意味な会話や、視聴者が物語を即座に理解するためのノイズ・邪魔にしかならない。
その点でセリフの完全な原作再現は手段として最悪だ。
あれは余裕があるからできる芸当であり、映画なら全部カットされる。
原作の良い意味での余裕、隙間を再現するためには、それを再現するためのより適した「物語用のセリフ」に書き換える必要があるんじゃないか。
『紙兎〇ペ』を見てらんないなと感じるのもこの点にあるのではないかと常々思っている。

 

・各エピソードの意味性の単純さ
映画は一つのシーン、カット、会話に複数の情報が含まれて、複数の意味性が現れることで、面白さを獲得している。と言われている。*8
ただこの映画の各エピソードが示す情報や意味性は非常に少ない。

いわゆるスッカスカの状態。
だからエピソードの途中から予期可能でしかなく、快楽を感じられない。
予想外が何一つおきないし、現実的(リアリティ)が無い。

 

・各エピソードの連動の無さ
たとえ意味性が単純なシーンであっても映画は連続性のあるメディアなので、各シーンが連動することで別の新たな意味が付与されて、面白さを獲得することがある。
これが分断されていると、単に脈絡のない個々のエピソードを見せられたときと同じようにつまらなく感じる。
だから『100ワニ』は面白くない。
もちろん時間的なつながりはあるんだけど、物語の意味としてどのシーンも単調で予期できるものでしかないし、それらがつながったところで伏線として生きることもない。

一定の時間方向に進むだけで、監視カメラと何ら変わらない。

編集やの面白さが無い。


・唐突に死ぬことのつまらなさ(サプライズとサスペンス)
サスペンス映画の神、ヒッチコックが「サスペンスとサプライズの違い」について「テーブルの下の爆弾」を例に出して説明する有名な話がある。

CineTech(シネテック):第96回紹介作品

もちろん今回は最初に死んだシーンを挿入しているのでサプライズではない。
ただサスペンスになっているかというとそれでもない。緊張感の欠片も無い。
そもそも間延びしまくっており、死ぬことの怖さ、恐ろしさ、虚しさや惜しさといったエモーションが一切感じられない。


・選択したエピソードが恋愛中心であること。
『100ワニ』は日常を舞台にしているが、映画ではとにかく恋愛エピソードが中心に語られる。
恋愛のために生きているとしか思えず、キャラクター形成がとにかく幼い。
中学生じゃないんだから、もっとやることあるだろ……。


・希薄な親子関係
電話でのみつながる母と息子。
親子関係には介入しようとはせず、ただ妻(ワニ母)のそばにいる存在の父
彼らの心情は特に語られない。意味も見いだせない、
無意味なものは物語世界にとってはノイズ、不要なものでしかない。
それに関係性などから意味性を持たせる必要があるはずなのに、単に記号的存在として、つまり主人公には父と母がいるということの説明のためだけに、あれだけの尺を取るのはセンスが無いとしか言えない。
ばっさりカットして、仕送りの段ボールを写すだけで十分だったんじゃ。

 


●新規パート

・フィクション世界でのifにこだわっている
自分なら現実の100ワニを取り巻く環境とか顛末を混ぜてしまいたい衝動にかられると思うけども、制作陣はあくまで物語世界でのifにこだわって新しい物語を創作している。商業作品、つまり商品としては正しい。物語精神に真摯であるとも言える。

ただ面白くはなってない。
というか原作にあった現実世界との接続、つまりTwiiter、デバイス上で友人たちと共有しながら楽しむというところまでこの作品に関しては作品に含まれるのではないか。*9
今回はそこに触れて、メタ的展開を混ぜるのもアリだったような気がする。個人的好みではあるけど。

・「不在の在」を描く試み
カメラには映らない「不在の人物」が物語の中心的役割を果たす。これは技巧的で高度なテクニックになるかと思う。*10
成功すれば、「不在の人物」は登場するよりもインパクトがある。
観客が勝手に想像して実際より大げさに考えるからだ。
ただ失敗するとこれはなんかよく分からなくなり、『スターウォーズ』の霊体よろしくキャラクターを霊としてでも出現させた方が面白くなる。
今回もワニくんの顔を青空に浮かべたらスピリチュアル映画として天下取れた気がするな。


・「コミュニティ内で人は替えがきく存在なのか」という問い

これは問いとしてけっこう面白かった。というかこの映画で唯一良いところはあのカエルくんの存在だろう。死んだキャラクター(ワニ)の居場所に嫌な性格の新参者(カエル)が収まる。
一人の人間をハブにしてコミュニティが形成され、その人物がいなくなってコミュニティが解体される。*11さらに「新参者が代わりを果たすことでコミュニティが新しい形で復活する」という点までを描き切るのはなかなか面白かった。『すばらしき世界』や『男はつらいよ』シリーズでも描かれる古典的な方法ではあるけどもこの映画唯一の見どころと言える。


・嫌われ者で空気の読めないキャラクターだけが主人公になりえる
カエルには意思がある。現状を変えるために周囲に働きかけるし抗おうともする。魅力あるキャラクターになっている。*12
映画のなかで主人公は戦う。葛藤や問題が主人公のもとに降ってきてそれをはねのけるために望む/望まないに関わらず、主人公は戦い傷つく。
映画が終わるころには冒頭には想像しえなかった地点に到達して、新しい考え、仲間、価値観、状態を得ているもの。その変化を観客は楽しんでいると言える。
そうなると必然的に、物語冒頭の主人公は、終盤の主人公自身を仮に見たとしてちょっと嫌いなはずじゃないだろうか。
そのような変化があるのはカエルくんしかいない。あの短い尺のなかで彼は明らかに変化して成長している。魅力あるキャラクターなりえている。

 

・天候で心情を表現するチープさ
天気はコントロールできない。映画は現実世界で撮影するので良い日差しになるまで撮影しないなんてこともよく見る光景。
ただアニメ世界は天気もコントロール可能である。
なので心情表現として容易く使われることがある。

これは思考停止でしか無いので自分は好きじゃない。
死んでからずっと雨。でキャラクターたちの心が晴れたら(=喪が明けたら)晴れ。朝日が昇るシーンで友情を再確認して物語を終わらせる。
こんなチープなことをこれだけ物語にあふれ技法も発達した2021年にやって許されるんだろうか。

 
・いわゆる「自主映画っぽさ」
ここまで書いてきた問題点は実は自主映画にはあるあるのものばかりである。

スクリプトドクターの脚本教室 初級篇の通販/三宅 隆太 - 小説:honto本の通販ストアに登場する概念なんだけども「窓辺系映画」というものがある。
つまり、主人公が内向的で行動を起こさず、代わりに独りで窓辺に立って物思いに耽ったり思い悩むことに終始する、そんな映画だ。

過去にその範疇に入りそうな映画を撮ったことのある身としては耳が痛い話なんだけども、100ワニは「窓辺系」映画の範疇から出ていない、というかまんまやっている。
以下は推測だけど、Twitterってそういう窓際系の物語が溢れていて、そこに共感するユーザーが集まっているから100ワニはこれだけ話題になったんだといえる。
つまり100ワニ世界にはもともとそういう匂い、属性が入っていた。
これは(アニメーション)映画には致命的な弱点になりうる。
まずアクションが起きないからつまらない。
そして間で見せるのは再現すると間延びしている

あげく問題は一切解決しない。

そしてこれらの弱点を最後まで振り切れていないからこそキャラクターは浅く、物語も取ってつけたようにしかなる。
つまり元から「物語的強度」が高くない作品が、純粋な物語を語るメディアである映画になったことで、こんな作品になってしまったような気がしている。


・タイトル改編の意味
漫画のタイトルは「100日後に死ぬワニ」だったが映画では「100日間生きたワニ」となっている。
この変化は以下の二点の変更をもたらしているように考えられる。
①100日という「特定の時間」の前後の時間の有無
②どの時間軸から物語(100日間)を眺めているのかが変わっている。

つまり、

【漫画版「100日後に死ぬワニ」が表す世界】
100+N日目→…→☆100日目→99日目→…→…→1→当日→無

※物語は過去(死ぬ100日前)から未来(死ぬ当日)に向けている。

【映画版「100日間生きたワニ」が表す世界】
無→100日目→99日目→…→…1→当日→☆現在

※物語は未来(死ぬ当日以降)から過去(100日間のみ)に向けている。

*13


漫画タイトルの表すところでは、100日以前が存在し得る可能性もあり、それが物語・キャラクターの過去という文脈を暗示しており、深みが出せていたともいえる。*14
だが映画版ではワニ登場以前の時間軸が一切描かれていない。唐突に物語は始まる。*15
後日談をやる上ではタイトル改編は必須だったともいえそう。

 

●まとめ

総集編パートは正直画面を直視できなかった。
ただ新規パートは批評性があるというかそれなりに問いをぶちこんでいたので語りやすい。
劇場内も前半は「ひどいな、これは…」という雰囲気だったのが、後半は相対的かもしれんがみんな真剣に見ていたようには思える。
とはいえ新規パートで提示された問いや設定に対して、この作品なりの回答(新規性)を出せているかというとけっこう疑問ではある。
作品としては甘いというかもう一歩踏み込めるんじゃないかと思えた。

 

 

 

別のスクリーンで『かくしごと』の舞台挨拶やってたみたいだしどうせならそっち見に行けばよかったな…

*1:上映時間ギリギリ間に合わずといういつものムーブをかました。

*2:コーヒー&シガレッツ』と『デット・ドント・ダイ』しか見たことなく、代表作と言われる『パターソン』も『ストパラ』も見たことないので、自分には彼の良さを語る資格は無いです

*3:に近いもの。ただし男性視聴者からしたらフィクション

*4:駅馬車』のズームは映画史に残るかっこよさ。

*5:アルコールが入ると自慢話してくる先輩、セクハラしている上司、愚痴ばかり言う母親、就職して変わってしまった彼、肝心な時に逃げる父親。これらはリアルな人間であり、物語でいうとキャラクターになる。

*6:ただし原作はTwitterに投稿されていた。Twitterがつくりだす空間のなかでは、ろくでもない出来事があり『100ワニ』がそれに巻き込まれて葛藤を抱え成長したといえないこともない。……そうかな……?

*7:別にやっても良いけど、たぶんものすごく退屈

*8:出典は無い。

*9:映画は見られた瞬間以外のとき、人々によって語られているときにも存在しているという話

*10:ヒッチコックの『レベッカ』とか

*11:自分この分野は全然詳しくないので皆さん「コミュニティ」「ネットワーク論」などでお調べください。

*12:仁義なき戦い 広島死闘編』の大友も魅力あるよね。

*13:☆は物語を眺める視点の場所を表す

*14:某友人「こいつら一体なんなん??」

*15:非常に申し訳ないが本編の始まりのシーンの記憶が全く無いのでこれ以上言及できん…。気になる方は劇場行って補完してくれ…。